70年代

1970年代は、8時だョ!全員集合の開始後、他局がこの番組に対して戦いを挑みますが、悉く敗れ去ります。
1970年12月の8時だョ!全員集合の視聴率は、45.7%を記録し、世帯数の半分が視聴する、正に「お化け番組」の誕生でした。

フジテレビは、この状況を打開すべく、視聴率が落ちたコント55号の世界は笑うをリニューアルし、1970年4月から「コント55号のやるぞみてくれ!」という番組を開始します。
しかし、わずか2ヶ月で番組は打ち切りとなります。
この結果にフジテレビは、かなりショックを受けた様で、この後に「なつメロ・ヒット・フェスティバル」という歌番組を放送しますが、これは、8時だョ!全員集合に対する対応を迷った結果の繋ぎ番組でした。
その後は、バラエティーで戦うことを避け、時代劇やドラマ枠とし、1975年の「欽ちゃんのドンとやってみよう!」まで待たなければならない。

欽ちゃんのドンとやってみよう!

フジテレビは勿論、萩本欽一にとっても、「欽ちゃんのドンとやってみよう!」は、8時だョ!全員集合に対する挑戦となり、強い意気込みで臨んだ番組だった。
8時だョ!全員集合においても、1974年にメンバーの荒井注が脱退をし志村けんが正式にドリフターズのメンバーとなり、再スタートを切ったところでもあり、欽ちゃんのドンとやってみよう!は、8時だョ!全員集合に視聴率で逆転をすることが出来た。
しかし、萩本欽一の強いこだわりにより、番組を中断する事があり、欽ちゃんのドンとやってみよう!は、1980年に土曜日の放送を終了し、月曜日の枠へと移動して行った。

8時だョ!全員集合から始まる土8戦争は、きっちり作る込んだ笑いを提供するドリフターズと作り込みをしながらもアドリブやハプニングをお笑いにする萩本欽一の戦いでもあった。
1974年に抜けた荒井注の代わりとして加入した志村けんが長いスランプを克服し、1976年に「東村山音頭」で一機に人気者となり、8時だョ!全員集合は、復活を遂げる。

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